Column

たいせつな一枚

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たいせつな一枚

写真にできることってなんだろうか。そんなことを日々考えます。
ある日、一通の撮影依頼のメールが届きました。

「高齢になった母との写真をフィルムカメラで撮ってほしい」

振り返ってみると、一緒に写った写真が少なく、今の母と撮りたいとのこと。
フィルムカメラは枚数をたくさん撮れない分、一枚一枚、より撮りたいものが明確になる気がします。
(ちなみに、僕が使っている中判カメラのPENTAX67だとフィルム1本で10枚しか撮れません)
たいせつな一枚を依頼いただいたことが嬉しかったのと、同時に身が引き締まる思いがしました。

僕がフィルムカメラを始めたのは5年前くらい。
日々成長する息子や、老いゆく両親。主に家族にカメラを向けてきました。

この写真を息子が20年後にどういう気持ちで見るだろうかと考えたり、
両親がいなくなった後に自分はどういう目線でこの写真を見るのだろう。
そう考えると写真は、「未来に残す」ためにあるのかもしれません。

同時に、写すという過程でもう一つ感じたことがあります。
それは、こうして一緒にいることは当たり前のようで、実は当たり前ではないということ。
写真を撮る行為は、彼らと過ごしている「今を感じる」ことでもありました。

だから、大切な人と写真を撮ることって、とても良いことだと思っています。
でも、家族や親子という近い関係だと、改めて写真を撮ることが照れ臭かったりもしますよね。
(最初は僕も両親もカメラを挟んで向き合うことも、少し照れくさいものでした)

実は、今回も、撮影の話が進んでゆく中、一度はお母様に断られたそうです。
半分諦めていらっしゃったその人から「自分が母とどうして撮りたいか、藤田さんから文章にしてアプローチしていただけませんか?」とメールをいただきました。差し出がましいかなと迷いましたが、直接伝えにくい気持ちを第三者だから代弁できるかもしれないと手紙を書かせていただきました。この撮影が、二人の中で少しでも思っていることや気持ちが伝わる機会になるかもしれない、そんな気がしました。手紙を送って断れなかったのもあるかもしれません(お母様、ありがとうございました)が、ご了解いただけて撮影をすることができました。

そんなやりとりがあっての撮影でしたので、ドキドキしながらその日を迎えました。
この写真は、その撮影が始まる前に遠くにいたお母様を写した一枚。
最初のカットでしたが、ふっと撮りたいなぁと思った瞬間でした。
納品した際、その方がぽつりとおっしゃっいました。

「母は植物が好きなんです。この時もきっと木を見ていたんじゃないかなぁ・・・。母らしいです」

優しい眼差しで写真を見つめられる、その姿を見ただけでも、あの時、手紙を書いてよかったと心から思いました。
こういう写真を残すことが、僕らにできることなのかもしれません。

藤田和俊

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